コンビニでイラつく私
コンビニに立ち寄ると、ほぼ必ず交わされるやり取りがある。
「袋ご利用ですか?」
「お支払いは?」
一見、何でもない定型の会話。だが、以前の私はここで小さな苛立ちを感じていた。
タイミングのズレが生むイライラ
私は支払い方法を先に伝えるタイプだ。
「ペイペイで」と言ったのに、数秒後に店員が「お支払いは?」と問いかけてくる。
「袋は要りません」と答えたのに、もう一度「袋ご利用ですか?」と聞かれることもある。
そのたびに私は思った。
『今言ったばかりだろう。聞いてなかったのか?』
自分ならお客様の言葉を聞き逃さないのに、なぜ彼らはできないのか。
その差に苛立ち、時には「この人は仕事への注意力が足りないのでは」と心の中で裁いていた。
背景にある「店員のリズム」
やがて気づいたことがある。
彼らは「自分の質問に対する答え」しか処理しないリズムで働いているのだ。
袋 → 支払い方法 → 会計処理。
この順番通りにやらないと、操作も確認も追いつかない。
つまり、私の「先回りした発言」は彼らにとってはまだ存在しない情報に等しい。
だから、聞こえていなかったのではなく、聞き取らないのである。
スキルと特性の差
もちろん、優秀な店員もいる。
先に伝えたことを拾って「袋なしですね、承知しました」と返してくれる人。
そういうやり取りは気持ちがいい。
逆に、聞き流す人は多い。
それは単にスキル不足の場合もあれば、ADHD的な注意配分の苦手さが関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、確率的に「聞き逃す人が多い」職場環境なのだ。
苛立ちから受容へ
では、私はどう変わったのか。
最初は「なぜ聞かない!」と憤っていた。
しかし、「自分のリズムではなく、店員のリズムに合わせればスムーズにいく」と気づいてからは、力が抜けた。
レジでの会話は、ターンテイキング(発話の順番の取り合い)の世界だ。
相手のターンに合わせて言えば、お互いストレスはない。
その単純な真理に気づいてから、私はほとんど苛つかなくなった。
今の私
いまでは、レジで「袋ご利用ですか?」と聞かれてから「いりません」と答える。
「お支払いは?」と言われてから「ペイペイで」と言う。
ただそれだけのことで、会話は流れるように進む。
苛立ちを手放すことは、相手を肯定することでも、妥協することでもなかった。
単に、自分のエゴを一歩引き、相手のリズムに身を委ねるだけだったのだ。
その小さな気づきのおかげで、私はコンビニという日常の場で、ほんの少し穏やかな自分を取り戻すことができた。
220円の魂の片割れ
文房具が好きだ。
そう自覚している人は意外と多いが、実際には「使うから好き」という人と、「使わなくても、ただ持っていたいから好き」という人とでは、その好みの深度が異なる。私は明らかに後者の人間だと思う。
「ジュースアップ03」というボールペンがある。PILOTが出している税込220円のペンで、名前からして少し軽やかな印象を受けるかもしれないが、これがとんでもなく良い。書き味は滑らかで、細くて美しいラインがスッと引ける。感性に響く細さだ。手に持ったときのバランスが絶妙で、軸の細さが指先にちょうどいい抵抗感を与える。筆圧をかけなくても滑るように書けるあの感触を、一度知ってしまったら最後、他のペンには戻れなくなる。
ただ、問題がある。
私は、紙にボールペンで文字を書く機会がほとんどない。
スマホ、PC、タブレット、音声入力——日常のほとんどがデジタルだ。
にもかかわらず、私はこのジュースアップ03を日々持ち歩いている。書かないときも手帳に差していたい。視界に入るだけで満足感があるし、見たときにふっと満足感が湧く。
一体、これは何なのだろう?
少しだけ背景を話すと、このペンは妻からもらったものだ。彼女もまた文房具好きで、使い心地やデザインの細部にこだわるタイプだ。だが、このペンを好きになった理由に、「妻からもらったから」というのは正直言って大きな要因ではない。たとえ彼女からもらわなくても、私はこのペンに惹かれていたと思う。
それでも、「もらった」という事実が、ほんのりとした温度をペンに与えているのは確かだと思う。
たとえるなら、音楽でいう副旋律。主旋律は「道具としての魅力」である。だがその背後に、日常のなかでさりげなく気にかけてくれる誰かの存在がふわりと重なると、その響きはより深く、心の奥に届く。
なぜ使わないものを、これほどまでに愛おしく思えるのか。
おそらくそれは、このペンが「私の一部」を映しているからだ。
丁寧で、繊細で、無駄がなく、静かで美しい。
自分が「そうありたい」と無意識に思っている在り方が、ペンという形を借りて、目の前に存在している。
持っているだけで、「自分でいられる気がする」。
そんな感覚。
そしてそこには、「安くても最高に良いものを持っている自分を誇りたい」「かっこいい自分でいたい」という、ちょっとした自己肯定の願いもある。
ブランドものの時計や高級な万年筆ではなく、220円のペンでそれを感じられるというのが、逆に嬉しい。
つまり、これは道具ではなく、魂の片割れのような存在なのだ。
失くしたら悲しい。でも——
なくなったら、もう一度買えばすむ話だ。
それでも、いま手元にある一本には、唯一の存在感がある。
人は、なぜモノに惹かれるのか。
それはモノが、その人の中にある“何か大切なもの”を静かに映し出す鏡だからではないかと思う。
ジュースアップ03は、220円という価格に見合わない価値を、私にとっては持っている。
恐らく一万円でも私は買うだろう。
ただ、私にとってこのペンは、「使うための道具」ではなく、「私という存在を静かに支えるもの」なのだ。
これを持っていることで、私は少しだけ、整った気がする。
そしてそれで、十分だと思える。
MC芸人・奇跡の一夜
見ました。予定調和なシーンもままありましたが、総合的には面白かった。腕のある芸人さんは、やっぱり面白い。
しっかりボールを拾って落とすまで拡げる力が素晴らしい。自力で力技を使うクリームシチューさんだけは旧芸人の匂いがありましたが(因みにこの番組内でのスタイルの話であって、実力は大変高い方々で、私は大好きです。誤解なきよう)
私は子供の頃から、お笑い番組ばかり見て歳をとりましたので、ドリフターズさん、ヤスキヨさん、欽ちゃん、たけしさん、さんまさん、とんねるずさん、ダウンタウンさんと、その時代時代の面白い芸人を見て楽しませていただいています。
「昔のお笑いはもっと面白かった」と、たまに言う方がいますが、そんな事ありません。
ドタバタやってるだけで高校生の文化祭レベルです。
圧倒的に今の芸人さんのほうが技術があります。そしてちゃんと笑わせてくれます。
お笑いだって、過去からの技術の積み重ねなんですから、今の方が面白いに決まってます。
実際、どんどん新しい切り口を開発してくる芸人さんには頭が下がります。
劇団ひとりさんの泣き芸なんて腹がちぎれるぐらい笑いました。
一昨日放送された「MC芸人・奇跡の一夜」の事をことらさ取り上げたくなったのは、時代の流れを強く感じたからです。
思い出されるのは、「笑っていいとも」の最終回です。これも、MC芸人の奇跡の共演でした。確かに凄かった。一人一人が立っていた。でも、忖度無しに言えば、面白くは無かったのです。
忖度笑いを強要されるような感じでしょうか。
(最近のさんまさんの番組は忖度笑いを強要される感じが強いかな)
力技で何かをしようとした技を上手にさばく仲間がいない、ぎこちない感じで蔓延しており、最後まで残念な場でした。
それはそれは豪華共演なのに、なんでだろうと、ずぅ〜、っと思ってたんです。
そう言うもんなのかな。やっぱり、王様同士を同じ場に置いてはいけないんだな、って。
(まあ、あれは生放送だから、かなりハンデですが)
でも、「MC芸人・奇跡の一夜」では、新時代の大物芸人が見事に、やり遂げた。パス回しの技、無理難題を仕掛けてトチリを誘う、天丼、喧嘩芸、それらを単純に使うのではなく、複雑に絡み合わせて、一瞬の落差を演出する。
やっぱり芸人さんは素晴らしいと改めて感じました。特に有吉さんは上手い。
さんまさんやとんねるずさんに代表される、親分が回す笑いは、もう古臭さを感じます。そう私達が感じるのは、一般社会ではチーム感覚を重視する風潮が全盛で、そんな背景の中での笑いを期待しているんですね。ピリピリしたく無いんですね。
オレンジ組織とグリーン組織の性格の違いですね。
時代が変わった事を明らか宣言する番組でした。
きっと切り替わるんでしょうね。
加地プロデューサーが仕掛けたんでしょうか。
昨今は、佐久間プロデューサーや藤井プロデューサーから裏方の絶大な力を感じますが、加地プロデューサーの凄いところが出ましたね。
感動しました。
また笑いと共に驚かせてください。
50歳になったら
今週の「酒のつまみになる話」で鈴木おさむさんが、「50歳からもうワンチャンス」と言う話をしていました。人なら、全く当たり前の挑戦の話であり、トピック足りえないと感じたのですが、まあまあ盛り上がってました。
これ、50歳で一段落、60歳になったら悠々自適に向かうのが普通という前提が隠れてないでしょうか。
一般人でも実際は、「60-65才で退職したら、残りの人生は今までの経験を使って何とか食えたら良いな」という方が結構いらっしゃいます。
日本人って、そんなに財産持ちなの?
いや〜、やばい、やばい。いままでの経験に新しい価値を掛け合わせて、新しいチャレンジをしなかったら、生き残りは難しいぞと私はビンビンに感じるんですよね。
「家と食い扶持があれば良いや」と言いますが、いやいや、維持費ってそんなもんじゃないです。
計算した事がないのでかな?
ヨボヨボになって息子夫婦の世話になる未来を想像してるのかな?
う〜ん。
私は84歳で背筋真っ直ぐに理路整然と話される先輩と84歳でヨボヨボになって同じ事ばかり話す先輩、両方を見ています。
どちらになりたいか?
言うまでもないのに、考えていない人に結構会います。なんでかな。知ってる人、是非教えてください。
まあ、そう言う人がいてくれないと、挑戦者が相対的に価値を持たなくなるから、私にとっては良いのかも知れませんが、日本全体の安全保障を願うと、私達おじさん連中はまだまだ気を抜いたらいけないと思うんですよね。
(経験x新しい挑戦x新しい挑戦) イノベーションで日本の未来の子供達が継いでいける土壌は残して死なないといけないと思うんだけどな〜。
「普通に暮らせる」ためには「普通」じゃダメで、毎日のプラスアルファの積み重ねで「貴方にしか出来ない事を作る」ことなんだと、おじさんは次の時代を担う若者にも見せていかないといけないと思うのですが、如何でしょうか?
喫煙所問題
私は40年近くになる喫煙者です。禁煙を試みる事、数十回。やめたり始めたり。長い時は7年禁煙を続けていた事もあります。
喫煙者ならよくお分かりの通り、喫煙所が減ったぐらいではやめられないのです。
コロナ期間の喫煙所閉鎖はさすがにきつかった。
休憩の度に隠れて済ませる場所を探すのが大変でした。結局半年ぐらいは禁煙したのですが、「やめたい」と言う強い意志があったわけではないので、喫煙所解禁と共にもとに戻ってしまいました。
健康に良くないことはまあまあわかりますが、「決定的な科学的根拠はまだ示されていない」と言う方もいらっしゃるので、そちらの意見にどうしても偏ってしまいます。
昨今のコーヒーショップが分煙室を用意してくれているのは大変ありがたいです。
とくにドトールさんは偉く、「タバコを吸う人も、他人のタバコの煙は嫌い」と言う事を良く分かった分煙室を用意してくれています。
駅近くの公共喫煙スペースは、人通りの少ない離れた場所に設けるなど、非喫煙者にとってもよく、喫煙者にとっても、気を遣いながら吸わなくて良いため、好都合です。屋根なんか無くても良いのです。
どうか嫌煙家の皆様、喫煙者も迷惑をかけたいわけではありません。「喫煙スペースをこの世から排除する」と言う強過ぎる施策があるから、私達は陰で隠れて吸うのです。
小さなスペースで構わないのです。これ以上、スペースを奪わないでください。灰皿の処理が大変なら、喫煙者はポケット灰皿を持ち歩きます。
お互いに心地良く過ごせる環境を与えてくれれば、私達は、ご迷惑を極力おかけしないように慎ましく喫煙します。
私達の健康を気遣ってくれるのは、ありがたいのですが、でも、どちらかと言うと「ありがた迷惑」なんです。人の親切を受け入れなかった私達の自己責任です。
コマーシャルでやっている「スーシャルディスタンス」素晴らしいと思います。
JR東海さんも、とうとう分煙室を廃止するそうです。困ったことになりました。JRも飛行機もダメなら、できるだけ車にしようかな。
社会は喫煙者を排除する流れを止めないとは思いますし、こんな発言をするのは、憚れる世の中になりました。なので、敢えて正直に発信したいと思います。
みなさん、分ければ済む事じゃないんでしょうか?どう思いますか?
「きっと誰かもそう思っているかも」と考えてみた
私がそう思う事は、きっと誰かもそう思っている。
でも発言すれば、根拠を求められ、発信すれば責任を伴う。
当たり前のことなので、極力、無造作に発信することは避けてきた私ですが、確証が無くても感じた事を徒然にあからさまにする事で何某かの貢献に繋がるなら、それも有りかなと思うようになりました。
私は基本的には、顔を出さずに他人を非難するようなメッセージには否定的ですので、それを助長したくはありません。
もしも私が書いた事で悩みが増すような事が有りましたら、遠慮なくご意見をください。
もしも私が書いた事に共感を持ったり、生きやすくなったりする方がいらっしゃれば、それこそがこのブログを始めた意図ですので、私もハッピーになれます。そんな時もどうぞ教えてくださいませ。
どのくらい続けるかも決めていませんが、暇なときに、思いついた時に発信していこうと思います。
どうぞ宜しくお願いします。